7-10. ハメダタの子である宿敵ハマンの息子十人が殺されたのは、言うまでもありません。 その名は次のとおりです。パルシャヌダタ、ダルフォン、アスパタポラタ、アダルヤ、アリダタパルマシュタ、アリサイアリダイ、それにワユザタしかし人々は、ハマンの資産には手を出しませんでした。
11. 夜も遅く、シュシャンでの死者の数が報告されると、
12. 王は王妃エステルを呼び寄せて言いました。 「シュシャンだけでも五百人は、ユダヤ人に殺されたという。 もちろんハマンの息子十人もな。ここでさえこんな具合なら、ほかの州ではどうなっていることか!どうだ、まだ何かしてほしいことがあるか。 あれば、かなえてつかわそう。 遠慮なく申すがよいぞ。」
13. 「もしおよろしければ、もう一日、シュシャンにいるユダヤ人に、きょうと同じようにさせてくださいませ。 それから、ハマンの十人の息子を、絞首台につるしてやりとうございます。」
14. 王が承知したので、シュシャンでは勅令がおり、ハマンの息子らはさらし者にされることになりました。
15. シュシャンに住むユダヤ人は翌日も集まり、さらに三百人を殺しましたが、この時も財産には指一本ふれませんでした。
16. 一方、全州のユダヤ人も、シュシャンと同様、自衛のために一丸となって立ち上がり、敵対する七万五千人を剣にかけましたが、やはり相手方の持ち物には手を出しませんでした。
17. このことは二月二十八日、全州いっせいに行なわれたのです。 翌日は特別な休日として祝宴を設け、大喜びで勝利を祝いました。
18. ただ、シュシャンにいるユダヤ人だけは二日目も敵を殺し、その明くる日を休日として、祝い合ったのでした。
19. こんなことから、今も、イスラエルの地方の小さな村々では、毎年、この二日目を祝日とし、贈り物を交換し合うのです。
20. さてモルデカイは、これらの出来事すべてを記録し、遠い近いには関係なく、全州のユダヤ人に手紙を送りました。
21. その中で彼は、二月の末の二日間を年ごとの祝日と定め、
22. この歴史的な日を記念して、断食と贈り物の交換をしようと提唱しました。 この日こそ、ユダヤ人が敵の手から救われ、悲しみを喜びに、嘆きを幸福の絶頂へと変えられた日だからです。
23. ユダヤ人はモルデカイの提案どおり、毎年この習慣を守りました。
24-25. ハマンがユダヤ人殺しの日を、さいころを投げて決めたこと、さらに、事の次第が明らかになった時、ハマンの陰謀はついえ去り、王命によって、自ら作った絞首台の露と消えたこと、息子たちもまた、さらし者となったことの記念日としたのです。
26. こんなことから、この祝日は「プリム」と呼ばれるようになりました。 さいころを投げることを、ペルシヤ語で「プル」と言ったからです。
27. 国中のユダヤ人は帰化した者も含め、毎年この二日間を、子々孫々に至るまで、祝日として守り抜こうと決心しました。