チャプター

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旧約聖書

新約聖書

ガラテヤ人への手紙 2 リビングバイブル (JLB)

1. それから十四年たって、私はもう一度、エルサレムに上りました。 その時はバルナバもいっしょで、テトスも同行させました。 

2. このエルサレム行きは、神様からの明確な指示に基づいたもので、私が外国人に伝えている教えについて、エルサレムのクリスチャンと話し合うのが、目的でした。 私は、教会の指導者たちと個人的に話し合いました。 それは、私の教えてきた内容を、正しく理解してもらい、また、その正統性を認めてもらいたかったからです。 

3. 彼らは、それを承認してくれました。 そればかりでなく、私の仲間のテトスにも――彼は外国人であったのに――割礼(男子の生殖器の包皮を切り取る儀式)を強要しませんでした。

4. だいたいこの問題は、いわゆる「クリスチャン」の連中――ほんとうは偽クリスチャンなのですが――さえ、もぐり込んで来なければ、生じなかったはずです。 実は、彼らはスパイのように偵察し、私たちがキリスト・イエスを信じて得た自由がどんなものか、また、はたしてユダヤ教のおきてに従っているかどうかを、探ろうとしていたのです。 奴隷を鎖でつなぐように、彼らの規則で私たちをがんじがらめにしようと、たくらんだわけです。 

5. しかし私たちは、ほんの一時も、連中に耳を貸しませんでした。 「割礼を受け、ユダヤ教のおきてを守ることによって救われる」などという考えで、あなたがたを混乱させたくなかったからです。

6. エルサレム教会のおもだった指導者たちも、私の宣べ伝えている内容に、何もつけ加えたりしませんでした。〔ついでに言えば、彼らがおもだった偉い指導者であることは、問題ではありません。 神様の前では、みな同等だからです。〕 

7-9. 事実、教会の柱として知られている、ヤコブとペテロとヨハネは、外国人を救いに導くために、神様がどんなにすばらしく、私を役立ててくださったか〔ちょうど、ユダヤ人伝道のために、ペテロが大いに祝福され、役立てられたように〕を認めてくれました。 というのも、同一の神様が、私たちに特別の賜物を与えてくださるからです。 彼らは、バルナバと私に握手を求めました。 そして、「われわれは、ユダヤ人を対象として伝道します。 あなたがたは、外国人への伝道をそのまま続けてください」と、励ましてくれました。 

10. ただ一つ、貧しい人たちを援助することをいつも忘れないように、との申し出がありましたが、そのことなら、私も熱心に努めてきたところです。

11. ところが、そのペテロがアンテオケに来た時、非常に誤った行動をとったので、私は面と向かって激しく非難しました。 

12. 実は、ペテロは、初めのうち、割礼にもユダヤ教のさまざまなおきてにも煩わされない外国人のクリスチャンと共に、食事をしていたのです。 ところが、あとからヤコブの友人であるユダヤ人が何人かやって来ると、彼らにとやかく言われるのを恐れて、外国人と食事をするのをやめてしまいました。 そのユダヤ人たちは、おきてを守ることを重んじる形式主義者で、救われるためには割礼を受けなければならない、と主張していたからです。 

13. すると、ほかのユダヤ人クリスチャンも、心中うしろめたさを感じるくせに、ペテロのまねをして、本心を偽った行動をし、バルナバまでが、その偽りの行動に巻き込まれてしまいました。

14. 私はそれを見て、彼らが自分の信じていることに対して不誠実であり、福音の真理に従っていないことを知りました。 そこで、皆の面前で、ペテロに言ったのです。 「あなたは生まれながらのユダヤ人なのに、もうずっと前から、ユダヤ教のおきてに束縛されないで生きてきたではありませんか。 そのくせ、どうして急に、ここの外国人にそれを守らせようとするんですか。 

15. もちろんあなたも私も、生まれながらのユダヤ人で、外国人のような罪人ではありません。

16. けれども、私たちユダヤ人クリスチャンだって、ユダヤ教のおきてを守ることによって、神様の前で正しい者と認められたのではなく、ただ、罪を取り除いてくださるキリスト・イエスを信じる信仰によってのみ、認められたのではありませんか。 だからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。 それは、おきてによってではなく、信仰によって、神様に認められるためです。 おきてを守って救われる人など、一人もいないのですから。」

17. しかし、もし、キリスト様の救いを信じた私たちに、あとになって、それはまちがいだった、やっぱり割礼を受け、ユダヤ教のおきてもみな守らなければ救われない、とわかったとしたら、どうなるでしょうか。 キリスト様を信じたおかげで、さんざんな目に会ったことになるわけです。 しかし、私たちの主に関するかぎり、そんなことは、絶対にありえないのです。 

18. もし、前に打ちこわした方法――ユダヤ教のおきてを守ることで救われようとする方法――をもう一度打ち建てようとするなら、むしろ、それこそ罪なのです。 

19. というのは、おきてに従おうと努力しても――それは失敗以外にないのです――神様の恵みは決して受けられないことが、聖書を読んでわかったからです。 キリスト様を信じてはじめて、神様に受け入れられることが、はっきりわかったのです。

20. 私はキリスト様と共に十字架につけられました。 もはや、私自身が生きているのではありません。 キリスト様が、私のうちに生きておられるのです。 私のためにご自身をささげてくださった神の子を信じた結果、今、私の体のうちには、ほんとうのいのちが与えられています。 

21. 私は、キリスト様の死ににはしません。 もし私たちが、ユダヤ教のおきてを守ることによって救われるなら、キリスト様が死ぬ必要など、なかったはずですから。